- 【リトリート2日目の戸隠神社】
- 戸隠神社は
- 霊山戸隠山のふもとにあり、
- 奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる戸隠神社です。
- はるか神代の昔、高天原に由来する
- 「天岩戸開き神話」ゆかりの神々を祀っています。
- 日本神話では
- 弟のあまりの乱行に天照大神は、岩戸にお隠れになり、
- 世の中は真っ暗になり、大混乱になりました。
- そこで、困った神々が会議をし、大神を再び外へお連れするため、
- 歌や踊りの祭りを開きました。
- 天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、
- 無双の神力をもって、天の岩戸を開き、
- 天照大神をお導きになった天手力雄命を
- 戸隠山の麓に奉斎した事に始まります。
- 参道は約2キロ、中程には赤い随神門があり、
- その先は天然記念物にも指定されている。
- 樹齢約400年を超える杉並木が続きます。
渦巻き状の木からもエネルギーが渦巻き状に流れている事が
予測できるほど。圧巻の杉並木が300本以上植えられています。- 途中
- ツインの木やトリプルの木も現れます。
- 歩いているだけで楽しめる並木道となっています。
この辺りから少し足場が悪くなりますので- 気合が必要になります。
- ここ迄来れば
- 九頭龍社が見えるのでもうすぐです。
九頭龍社-
九頭龍社(くずりゅうしゃ)のご祭神
九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)
九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)は戸隠の地主の神様です。
社伝では、以下のような言い伝えが残されています。平安時代の嘉祥二年(849年)に学問行者という修行僧が戸隠山に向かって法華経を唱えながら、お祈りをしていたときでした。 九頭一尾の龍が現れ、「自分はこの地に住んでいる元別当(寺務を統括する僧職)なのですが、仏様をないがしろにしたため、龍に姿を変えられてしまったのです。
その後、何人もの修行僧がやってきて経文を唱えていったのですが、経文を最後まで聞き終わらないうちに、修行僧はみな、私の毒気にあたって死んでしまいました。
でも今、法華経を唱えてもらった功徳(くどく、ごりやくのこと)によって、解脱(死者の霊が修羅(しゅら)の妄執(もうしゅう)をのがれて浮かばれること)することができました。」
と話し、この地の守護神となることを約束してくれたということです。
奥社(おくしゃ)のご祭神
天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
古事記や日本書紀に記されている「天の岩戸伝説」で、
岩屋の中にお隠れになった天照大神(あまてらすおおのかみ)が外の様子が気になって、
岩戸を少し開けたときに岩戸を引き開け、天照大神の手を取って、
岩屋から引っ張り出したのが、天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)です。
行きと帰りとで1時間ほどです。
戻りましたら
お楽しみの戸隠しそばを堪能して頂きます。
おそばを堪能して頂いた後は
残りの3社巡り
中社、火之御子社、宝光社へとご案内いたします。
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中社(ちゅうしゃ)のご祭神
天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)
天照大神(あまてらすおおのかみ)が、弟である建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の乱行に怒って岩屋に引きこもった際に、天照大神を誘い出す方策を考え、岩戸を開くきっかけを作られた神で、中社のご祭神とされています。
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火之御子社(ひのみこしゃ)のご祭神
主祭神:天鈿女命(あめのうずめのみこと)
配祀:高皇産御霊命(たかみむすびのみこと)、栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
古事記や日本書紀に有名な「天の岩戸伝説」が記されていますが、その「天の岩戸伝説」で岩屋の中にお隠れになった天照大神(あまてらすおおのかみ)を誘い出す舞を踊った女神である天鈿女命(あめのうずめのみこと)を火之御子社はご祭神としています。
また「火之御子」は「日御子」とも考えられることから、天照大神の御子神である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)がご祭神として考えられ、またその関係する神々(※)を祀ることとされたようです。
※栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)は天忍穂耳命の妻、高皇産御霊命(たかみむすびのみこと)は栲幡千々姫命の父
舞楽、芸能、火防、結縁岩屋にお隠れになった天照大神(あまてらすおおのかみ)を誘い出す舞を踊った女神である天鈿女命(あめのうずめのみこと)を主神として祀っていることから、舞楽、芸能に功験があると言われてます。また日本書紀では、岩戸の前で天鈿女命が舞を踊ったときに、火が焚かれていたことから、火防にも功験があると言われてます。さらに天孫降臨(※)のときに天の八衢(やちまた)で邇邇藝命(ににぎのみこと)を待っていた猿田毘古(さるたひこ)に最初に名前を聞いたのが天鈿女命であるとされています。そして猿田毘古の案内で邇邇藝命が天降るのですが、その後、猿田毘古の名前を天鈿女命がもらい受け、舞楽を舞う猿女君(さるめのきみ)と名乗ることになり、さらにその後、猿田毘古と天鈿女命が夫婦となったことから、結縁にもあらたかな功験があると言われてます。※日本神話において、天照大神の孫神である邇邇藝命が、天照大神の神勅を受けて葦原中国(日本)を治めるために高天原(神々の住む世界)から日向国の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったことをいう天の岩戸伝説
「天の岩戸伝説」は古事記や日本書紀に記されています。
「天の岩戸伝説」 その昔、神々がまだ高天原で暮らしていたころ、天照大神(あまてらすおおのかみ)の弟である建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)は、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたりと数々の乱行を行っていました。
これを見た天照大神は「何か考えのあってのこと」と建速須佐之男命の乱行を許していました。
ところがある日、天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っているとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れました。
これに驚いた天の服織女の一人が、梭(ひ、はた織りでよこ糸を巻いた管を入れて、たて糸の中をくぐらせる小さい舟形のもの)が陰部に刺さって死んでしまいました。
ここまで建速須佐之男命の乱行を許してきた天照大神でしたが、これにはたいそうお怒りになられ、天岩戸に引きこもってしまわれました。
その結果、高天原も葦原中国(日本)も闇となり、さまざまな禍(わざわい)が生じることとなってしまいました。
そこで八百万の神々が天の安河の川原に集まり、なんとか天照大神に外に出てもらおうと相談したのですが、中社のご祭神である天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)の考えで、さまざまなことを試してみました。
まず長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせてみました。また八尺瓊勾玉と八咫鏡を作らせ、祝詞(のりと)を唱えさせたりしました。
でもそれでは、天照大神は岩戸から出てこられませんでした。
そこで天鈿女命(あめのうずめのみこと)が、岩戸の前に桶を逆さまに置き、その上で胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて「とんとん、とととん、と」と妖艶に踊りました。
すると高天原が鳴り響くように八百万の神が一斉に大声で笑いました。
これを聞いた天照大神は不審に思い、天岩戸の扉を少し開け「自分が岩戸に引きこもって、世の中は闇になっているはずなのに、なぜ天鈿女命は楽しそうに舞を舞い、八百万の神は笑っているのか」と尋ねました。
すると天鈿女命は「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」といい、天照大神に鏡を差し出しました。
すると鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けたそうです。
そのとき、隠れていた奥社のご祭神である天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)が天照大神の手を取って岩戸の外へ引きずり出し、二度と岩屋に引きこもらないように、岩戸を遠くに放り投げました。
こうして高天原も葦原中国(日本)も光を取り戻し、平和な日々が訪れるようになりました。
この放り投げた岩戸が戸隠に飛来し、戸隠山になったと言われています。
夫婦杉
社殿の左手奥に樹齢500年を超える「夫婦の杉(二本杉)」があります。
火之御子社に参拝された際には、ぜひご覧ください。
宝光社(ほうこうしゃ)のご祭神
宝光社(ほうこうしゃ)のご祭神は「天表春命(あめのうわはるのみこと)」です。
「天表春命」は中社のご祭神である「天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)」の御子神です。
鳥居から社殿まで193段ある石段や杉の大木が見え、神秘的な雰囲気を感じることができます。宝光社(ほうこうしゃ)創建の由来
戸隠に関する数々の縁起本を整理・編集した「戸隠山顕光寺流記」に宝光社の創建に関して以下のように記されています。
後冷泉天皇の御世である康平元年(1058年)8月26日、奥院より五十町ほど離れた大木の梢に光を放って輝くものがありました。 人々が不思議に思い集まって、よく見てみたところ、それは「御正体」(神仏習合の考えによって神体である鏡に本地仏の像を示した鏡像のこと)でした。
その時そばにいた12~3歳の女の子がもだえ苦しみ、倒れてしまったので、人々が「どうしたものか」と騒いでいると、女の子はこういいました。
「私は当山三所権現の先駆けで左方に立つ地蔵権現です。本院は女人禁制の結界があり、女人は中に入ることができません。従って本院に行けない女人のために、ここに堂を建てて、私を安置してください。」
その場にいた人々は怪しんで「それが本当なら、ここにいる誰かの袖にお移りください」と言うと、「御正体」はそこにいたお坊さんの袖の中に飛び移りました。
お坊さんが慌てて袖の中を確かめてみると、地蔵菩薩像が入っていました。
そこで人々は女の子の言うことを信じ、すぐに堂を建てて地蔵菩薩像を安置しました。
堂ははじめ「福岡院」と呼ばれ、後に「宝光院」といわれるようになりました。また「御正体」がやってきたところを「伏拝所」というようになりました。
その後、本地の地蔵菩薩が垂迹(すいじゃく、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考え)したのが「天表春命」であるとされるようなったそうです。
言い伝えでは上記のように「御正体」が飛来して宝光社が創建されたと言われていますが、実際のところは雪深いところにある奥院に対して、もう少し住みやすいところ居住区として作られたのが、宝光社であったようです。
さて、5社を巡った後は
時間がありましたら鏡池にお連れしたいと思います。
鏡池を見ながらコーヒータイムをとりたいと思います。
鏡池と戸隠し山を見ながらティータイム☕ホッコリと旅の余韻に浸ったら
松本空港まで、お連れ致します。 -